どこまで自己責任ですか?

 

愚かな人生を歩んだ人をみて、
自己責任だと昔は思っていた。
けれど、いまはよくわからない。
いったいどこまで自己責任なんだろうか。

馬鹿げた状況をみて、
「私だったらそうしない」と断言することがある。
でも、彼は私ではない。
彼と同じ境遇で、同じ能力で生まれたら、
はたして違う人生は選べただろうか?
きっと同じ道を歩いたに違いないのだ。

「自己責任」という言葉は人を見放したい人がよく
使う言葉だ。
あるとき戦地にボランティアにいった人たちがテロリストに
拘束されても、外務省は「自己責任」ということで、
その人達を助ける交渉すらしなかった。
でも、どこまでが自己責任なんだろう。
国の理論でいくと、

テロリストが跋扈している国に行かざるえない理由がある
人はもはや「ちゃんとした国民」ではなく「責任」はとれないので、
「自己責任」で自由にやってくださいということになってしまう。

人間は生きていると、簡単に自己責任の範囲外に転がる。
会社が倒産した、リストラされた、病気になった、
家族や友人の死などなど、
人生に打撃を与える事件のどこまでが自己責任なんだろうか。

現在、国は衰退期に入ってきている。
成長期に生きてきた老人たちに成功の秘訣を聞くと、
「安定した会社に入って、住宅ローンを組んで家を買っておけば
土地が値上がりして一財産築けるし、老後は年金が沢山もらえて
安心だ」と言うだろうけれど、
成長期に通用したことは、衰退期には役にたたない。
衰退期に生まれた青年は、苦労が多い。
だけどそれは自己責任ではない。
近年は、非正規雇用の人たちが増えているけれど、
それは衰退期には当然の現象で、個人の努力を超えた部分がある。

自己の責任を全うしていても、人生は平安にならない。
自分の努力にかかわらず会社は倒産するし合併吸収するし、
老化するし、病気になる、死ぬ。
人生は自己責任の埒外にも領土を展開していて、
自分の手が届かないところから私たちは覆るのだ。

運命のようなものは存在する。
それは私の体の特性だったり、思考力だったり、
心だったり、生まれた環境だったり、
生まれ持ったものは存在する。
それは運命といえるだろう。
厳然としていて、変えようがない。
私がいまからウサイン・ボルトのように成りたいと
思っても、無理だ。

だけれどその「運命をどう選択していくか」には
若干の裁量が残されている。
自己責任なのはそれくらいの範囲だろうと私は思う。

だから、人はそれぞれ比較できない。

ブッタは言った。
「自分が人より優れていると思ってはいけない。
人よりも劣っていると思ってもいけない。
同等だとも思ってもいけない」

あらゆる比較をするな、という言葉だ。
人それぞれ違うから、その人を知るには注意深く
寄り添い観察する必要があるんだなぁ、と思うこの頃。

th_munich-1220908_960_720



Category: 生活を変える方法

- 2016年4月14日

コメントを残す

Your email address will not be published / Required fields are marked *