常識はずれになる賢者の習慣

 

世の中には賢者がいて、そういう人には
なかなかお目に会えない。
賢者は少数派だ。
ということは、必然的に多数派をしめているのは凡人ということになる。
「常識」というのは多数派の凡人が信じる習慣だったり、
考え方だったりする。

少数派の賢者は、常識を作り出すほど多数ではない。
本を書いても、人に話しても、
「それは極端で、常識はずれですね」と言われるのがオチだ。
賢者は非常識なのだ。

この非常識というのは礼儀作法を知らないとか、
みんな知っていて当然の知識を知らないという意味ではなくて、
独自の生き方や習慣を持っているという意味だ。

この意味をよくよく考えると、
「成長する」ということは、常識はずれになり、
少数派になるということになる。
そして、多くの人に理解されない道を歩むことを意味する。

私は凡人だけど、すこしでも賢明な生き方をつねに
探っている。
もしかしたら、あなたもそうかもしれない。
1つでも「賢者の習慣」を身につけたいと思っている。
自分の生活習慣を振り返って、賢者の生活習慣ばかりならば
あなたは賢者にしか見えないはずだ。

たとえば私はお酒を飲まない。
飲もうと思えばかなり飲める人間だけど飲まない。
それは仏教の生きるルールである五戒の中にそういう
条項があるからだ。
ブッダという賢者の生活習慣を取り入れるとそうなる。
やむおえず飲み会などに参加しなければいけない時、
私は自分がお酒を飲まない理由を
「仏教徒の五戒を破ることになるんで」と言わない。
ただ「お酒飲めないんです」と言う。
なるべく普通の人を装う。
もしも私がまったく仏教的知識がない他者だったら、

「飲み会で宗教的理由でお酒を飲まない日本人?
なんか怪しい新興宗教に入っているんじゃないか、、、、
そういえば葬式で坊さんがビール飲んでいたけど、
やっぱりどっかの信者なのか??」
とあらぬ疑惑をおこしてしまうだろう。
(これが多民族国家の国で、いろいろな価値観と文化の人が
共存する社会ならば、堂々と「仏教徒なんで」と押しきれるけど)

「賢者の習慣」と常識というのは衝突することが多い。
私は今はやってないけど、一時期とりいれていたベジタリアンもかなり
会う人から批判されたり説教されたりする。
「賢者の習慣」は秘密にしておいて、こっそり行うに限る。
どうせ話してもほとんどの人に誤解されるし、
悪くすると反対されたり論争がおこったりする。

たとえばこの本。
私は肉体労働者でもあるので実践はしないけど、
貴族のコルナロの著作で、ほんの少し良質な食事をとるだけで
素晴らしい健康と頭脳を維持できたという本だ。

私の知り合いのご老人におすすめしたいのだけど、
その方は「三食きっちり食べないた駄目だ」という信念を
テレビで得ていて、耳も貸してくれない。

世の中には一日一食、もしくは節食して
素晴らしいパフォーマンスをしている人がいる。
でも、それは少数派で常識にならない。
だから常識はずれ上等です。

無病法 ルイジコルナロ

無病法

 


Category: ポーズ練習の起源, ヨガ的かんがえ, 体を変える, 読書

- 2015年10月17日

コメントを残す

Your email address will not be published / Required fields are marked *