人生は果てしないゲーム

ふと気づく。
人生はこれで終わりという事がない。

たとえばご飯を食べたら、満腹になるまで食べても
またお腹がすく。
体は洗っても洗っても、生きている限り汚れる。
夢を叶えて、念願のチャンピオンになったボクサーは、
今度はその王座を守る戦いを始めないといけない。
大金持ちになったら、お金目当ての人が寄ってきて
心のやすまる暇もないし、
貧乏だったら、貧乏で生活苦から心のやすまる暇もない。
大金を得て、南の島に隠居したら今度は
耐え難い退屈と充実感のなさをポッカリと穴をあける。

「これをしたら、人生完璧でもう安心」
ということがない。

満足はあっという間に終わり、また不満にこづかれて
歩くことになる。
子供のときは大人になったらといい、
大人になったら老後に、といって「幻想の満足」を
遠い未来に投影してなんとか生きていく。

それもこれも、これをしたら「満足」という
決定打がないからだ。

すべての事には一時の満足を与える力しかない。
中身のないハリボテだ。
不満足から不満足へ歩く旅。

そう考えると、ブッダが発見した教えは
この人生のゲームをクリアする唯一の道だとも言える。
(四聖諦:一切は苦であり、苦には原因があり、苦は滅することができ、
そのための道がある)

攻略する道を進み、人生ゲームを
クリアした人にはこういう自覚が生まれる、らしい。

「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。
なすべきことをなしおえた。
もはや再びこのような生存を受けることはない」

私達の行為は、大抵終わらない。
念願の大学に入ったら、念願の会社に入り、
出世をし、出世をし、引退してゲートボールに精をだす。
じっとしていられない。
衝動に突き動かされて生きている。
自分の欲望を率直に表現して生きることが自由とされているけれど、
じつのところ欲望に支配されているだけだ。

生まれることは尽きないし、完成もしない、
なすべきことはなすべきを生み、再びこのような
生存を受けるはめになる。
ゲーム(人生)の結果がまた新たなゲーム(人生)を生み、
宇宙が生まれて、消滅して、生まれて消滅しても、
姿や形を変えて、ゲームは続いていく。
そんな具合だから、ブッダはあなたが膨大な過去の
人生の中で流した涙は海よりも多いと言う。

だから、なにげなく仏教を知ることができるけど、
仏教の教えが存在する世界に生まれることができたというのは、
大変にラッキーなことなのだ。

過去にさまざまな宇宙で、7つの存在がブッダになった(過去七仏)
そして、この世界で過去七仏が発見したものと同じものを、
ゴータマシッダールタが再発見し、真理(ダンマ)を体現しブッダとなった。
ダンマは滅びることがないけれど、ゴータマの教えは人から人へとリレーされて
いるだけだから滅んでしまう。
滅ぶ前に仏教を知ることができてラッキーだ。
そう考えると、五戒を守った毎日の生活と瞑想はとても貴重な機会になる。

じつのところ、私はヨガも仏教も勉強して実践しているけど、
本当に初歩的でさわりの部分しかできていない。
だけど自分が出来る範囲でも、日々実践していくだけでも
人生ぜんぜん違うのだ。

私の場合、この体たらくだと次のゲーム(人生)が自動的に
始まるのは確定だけど、ちょっとずつでも人生をゲームを
クリアの方向に進めていけるのならと思う。


Category: 仏教

- 2016年2月29日

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