メディテーション・レジスタンス・アーミー

 

 

「この人はもうおしまいだ」
ときおり、そういう絶望的な人と接触することがある。
自分自身の悪業に人生の乗っ取られて、やることなすこと
自分の首を締めることばかりで未来に少しの希望も見いだせない。

もしも悪魔がいるのならば、その人に巣食っている
悪い習慣の群れがそれだろう。

<富める者はますます富み、貧しき者は持っている物でさえ取り去られるのである>
というマタイの法則は、お金や物を語ったことのように聞こえるけれど、
「良い習慣、悪い習慣」についても当てはまる。

良い習慣をもっている人は、放っておいても良くなるだろうし、
悪い習慣を持っている人は、悪くなる一方で救いがなく、
絶望的な状態の人は悪い習慣をたっぷり
持っていることが多い。

周囲の人から信頼されず、孤立してまるで疫病神のように
忌み嫌われてしまう。
最初は小さかった悪事が転がり、習慣となり巨大になり人生を
乗っ取って、絶望が人生の日常になる。

そうなってしまった人はその悪の連鎖から
抜け出すことができるのだろうか。
変われるだろうか。

たとえば、麻薬中毒者になり仕事も家族も失った男がいるとする。
彼の救いは麻薬で、人生の苦痛を和らげる唯一の手段だ。
すべてを失った痛みを癒やす麻薬が、すべてを失わせた原因なのだ。
そして、すべてを失った今、麻薬なしでは生きていけない。
そんな彼は変われるだろうか。

一人では無理だ。
人はそんなに強くない。ひとたび奈落に落ちてしまったら
堕ちた衝撃で手足が折れて、闇の中で這い上がる力を失う。
もはや同じ状態で息絶えるのを待つだけだ。

更正を助ける施設の力と健康的な生活を提供する他者の
助けがないと、そこまで落ちてしまったら自力で立ち直ることは
難しいだろう。

しかし、生活環境が救われても、以前として彼は
悪の連鎖に心を掴まれたままだろう。
そんなに簡単ではない。

なにが人に過ちを繰り返させる
パワーなんだろう。
悪い習慣は単独では機能しない。
燃料がいる。

それの燃料が煩悩だ。
欲望と怒りのエネルギーが、悪習慣を突き動かす燃料で
動き出した悪習慣に支配されたら人生は「悪の連鎖」から抜け出すことが
できない。

変わる、とはその支配された王国を取り戻す戦いでもある。

麻薬中毒者ほどではないけれど、
私の内部でも、戦争が起こっている。
例えるならば、煩悩に支配された心身という王国があり、
そして、理性が指揮する抵抗軍が私だ。

煩悩は私の心身を占拠し、休むことなく突き動かす。
私の敵である煩悩のパワーは恐ろしい。
まずは、彼らのパワーの凄まじさを認識しなければならない。

あなたにはまず「これを過信しすぎると死ぬ」という知識を伝えようと思う。
煩悩パワーに対して過信されている防具がある。
それは知識、哲学だ。
残念ながら、煩悩は知識を超えている。
いくら人間が賢く考えても、煩悩はそれらを超越しているのだ。
哲学なんぞでは煩悩を防ぐことはできない。
これは本当だ。

たとえば、あなたが煩悩を殲滅する知識である仏教哲学大学に入学する。
すべての知識は本気で学べば、仏教を知識として暗記できるだろう。
それらは人生を清浄に導く智慧の言葉であり、先人の勝利の言葉だ。
仏教哲学大学を卒業したあなたは、仏教の質問をされても
スラスラと答えることができる。

苦とは、縁起の法則とはと、わかりやすく語る。
仏教哲学者として、あなたは卒業するだろう。

しかし、ひとたび煩悩に襲われたら、あなたは自分が無力であることを知るだろう。
なぜなら、煩悩の力は知識を超えているから。
どんなにすぐれた哲学も、煩悩の力の前には最終的には支配されるだろう。
仏教哲学者のあなたは、怒り、欲望に支配され、
自分の知識と、自分の行動とのギャップに苦しむだろう。
自分が世間を欺いて仏教者づらする偽者に思えてくるはずだ。

煩悩はウィルスのように、あなたの知識の鎧を突き破り、
知性に侵入し、あなたが賢ければ、その知性は悪賢さに変わり、
すべて悪用されるだろう。

私たちの敵とは、そんな滅茶苦茶なパワーをもった敵なのだ。

煩悩に襲われたら、思考は役に立たない。
たとえば、食べてはいけないショートニングまみれのドーナッツを
食べたいという煩悩に襲われたら、
思考は煩悩に汚染されて、こう囁く。

「こんな小さいドーナッツ1つくらい平気、疲れたときは糖分が必要」

健康的な知識はどこかに消えて、あなたはドーナッツを食べるだろう。
煩悩に汚染されていないときは

「ショートニングの入ったドーナツなど
食べる意味はない」

と断固として語ってくれた同じ心の声に、
煩悩が侵入して、言い訳を囁く。

時々、賢いとされる人、聖職者のスキャンダルが報じられるが、
煩悩のまえには、その人の頭の中にどんな知識があっても
知識だけでは無力だ。
賢い人や聖職者は、その「賢い頭」や「聖なる頭」が乗っ取られて、
なんやかんやと理由をつけて、煩悩のいいなってしまう。

私はほぼ煩悩に支配されて生きている。
しかし、すくない時間、それに気づいたとき
私は領土を取り戻す戦いを静かにはじめる。

私のレジスタンスの武器は2つ。
認識瞑想だ。

さっきのドーナツの件でいえば欲望が、脳を侵入して
心の声が歪んだとき、最初の武器である認識
脳が煩悩に支配されたことに気づく。

人間を人間たらしめる能力が認識力だ。
自分が今、どういう状態にあるのか、ということを
知る能力があるから、人間には選択することができる。

自分の状態に気づき、
ここでどうするか?
これが運命の分かれ道だ

もしも、あなたが「考え方」や「哲学」で煩悩に対抗できると
いう幻想を信じているならば、自分自身にたいして
説得を始めるだろう。

「このドーナツは健康に悪い」とか「我慢しよう」とか、
これが脳をすこししか占領しない小さい煩悩ならば、
もしかすると成功するかもしれない。

しかし、このやり方は大きな煩悩パワーの前には役に立たない。
煩悩は、多数の言い訳であなたの意志力を完封して、あなたは流される。

煩悩に対するには瞑想しかない。
なぜなら、思考はすでに煩悩に占領されて敵の手に渡っている。
そんなとき、思考力に意識をそそいでも、それはウィルスの侵入された
コンピューターで仕事をするようなもので、どこまで行っても
ウィルスからの支配から抜け出すことができない。

そうなったら、意識を呼吸にむける。
考えるのをやめて呼吸を感じる。

これが煩悩の嵐の中で倒れない塔であり、
激流のなかで流されない島になる。

煩悩があなたに秘密にしたい事があるとするならば、
それはあなたの意識を巻き込むことができなければ、
存在できないということだ。

動物ならば、ドーナッツを前にしていて空腹だったら「食べる」という
選択肢しかない。
しかし、人間であるあなたには「食べる」「考える」「呼吸を感じる」という
選択肢が現れる。

そして、その選択に意識が巻き込まれると
「食べる→ドーナッツを貪り食う」
「考える→悩む」
という事になり、煩悩から逃れることは出来ないけれど、
瞑想を選択すると「呼吸を感じる→煩悩の力が弱まっていく」という
自由への道が開かれる。

意識はむけられた対象を成長させることができる。
植物にとっては太陽と同じだ。

日の目をみない煩悩は力を失い、枯れていく。

煩悩との戦争とは、この意識という光の奪い合いである
とも言える。

普通に考えると、ただ呼吸に意識を向けるだけという
シンプル極まりない方法のどこにパワーがあるのか?と
疑問になるだろうけど、
呼吸を感じているときに、煩悩はすこしづつすこしづつ
萎びて枯れていっているのだ。
煩悩について悩むことは、結果として煩悩に意識を当てて
成長させることになる。
呼吸に意識を向けることが、煩悩の力を削ぐのだ。
正面から突っ込んでいっても、煩悩の強靭なパワーには
対抗できない、だからその食料を断つのだ。

これがヨーガスートラでいうところの
「煩悩から生じる心のプロセスは、瞑想によって打ち消すことができる」
(ys2,11)という言葉の意味だ。

瞑想、これが煩悩と闘う原理だ。

キリスト教の人ならば、煩悩に襲われた時、意識を神に向けることで
煩悩を枯らす。
ある人は歩くことで、ある人はイメージに意識を向けることで、
呼吸に意識を向けることで、要するに煩悩に侵入されないものに
意識を向けることができればいい。

こうして、少しづつ自分の中から煩悩で作られた悪い習慣が
枯れて粉々になるにつれて、人は自由になっていく。
いつの日か、心身の支配権を煩悩から取り戻し、
自由に生きる日がくる。

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Category: アシュタンガヨガ, 瞑想

- 2016年10月26日

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