瞑想は心の環境を変える

最近、あちこちぶつかって
不自由な思いをして生きている。
仕事を終えて、家に帰っても仕事のことが
フラッシュバック。
体は家にあれども、心は職場から帰れない。

そんな時に思うのは、外部の環境よりも、
心の環境のほうが重要ということだ。

家に帰り、窓から田植えしたばかりの
田園や、雪を頂く白山を眺める。
庭の畑には、ミツバチが来ていて、
子どもたちが植えた花も咲いている。
体はいま、平和そのものの光景にいるのに、
心はいまだストレスで苦しんでいる。

戦場した帰還した兵士は、これのもっと極端な
バージョンなんだろう。
体は祖国に帰っても、心はまだ戦場にいて、
怯えている。
悪夢の光景の世界に生きる心と、
平和な日常生活に生きる体とのギャップ。

戦場ほどのストレスでない私の場合は、
瞑想と運動で、ほとんどストレスゼロにすることが
できるけれど、それでも5分とか10分とかいう
短時間では無理だ。

そもそも心とはコントロールできないものだからだ。
これは重要なので、何度も書くけれど、
心はコントロールできない。
私のものですらないかもしれない。

そんなはずはない!と思う人もいるだろうけれど、
実例を出して説明する。

瞑想をしていると、職場であった理不尽な事が蘇る。
これは思い出そうとしている訳ではない。
私は、わざわざ嫌なことを思い出そうと心がけない。

「心よ、今は家にいる。
職場でも嫌なことは思い出さないでもらいたい」

と命じても、うまくいかない。
もしかしたら、3分くらいは大丈夫かもしれない。
でも、気づくと、また同じ嫌な記憶の中にいる自分を
発見する。

心はコントロールできない。
たとえば、今、住んでいる場所のように。
家の外では、遠くに車が走る音がする。
朝だから気温は肌寒い。
空は曇っている。
目覚めた子供と嫁が喋り声がする。

私、というのは独立して存在していない。

瞑想中、小さい窓しかない瞑想部屋にいても、
音もなくふる小雨が止んだことがわかる時がある。
その時、私は私の枠を超えて、瞑想部屋と天気と
無意識につながっている。

肉体的な私は、外部の環境と呼応して成り立っている。

心も同じだ。
天気と同じで、周囲の人の感情や考えに左右される。
私の心は、周囲の人間関係や、書物、メディアと融合している。

たとえば、道で熊に出会って追いかけられたあと、
家に帰って瞑想したら、瞑想中は
ほぼすべての時間、熊と一緒だろう。

熊に追いかけられなくても、嫌なことがなくても、
その場合は、
忘れていたような過去の記憶、
未来への欲望や絶望。
完全に思いが浮かぶことなく、瞑想できるなんて人は
限りなく少ない。

これから瞑想するとして、
心に何が思い浮かぶのか、私はわからない。
自分の心なのに。
体と同じく、心も独立していない。

ぼんやりすることと、瞑想の違いは、
意識をコントロールするか否かだ。

色々な記憶が蘇ってくる。
ぼんやりしていると、その記憶の中に
入り込み、無限の増殖する迷路のように
記憶から記憶へ、さまようことになる。

瞑想中は、たとえば呼吸の感覚という
リアルなものに、意識をむけて
その記憶には意識をむけない。

心はコントロールできない。
けれども、何に意識を向けるかは選択できる。

たとえば怒りの記憶が湧いてきたら、
考えや記憶には意識を向けずに、
その記憶で沸き起こった体の感覚に意識を向ける。

焼け付くような感覚。
毒が流れているような感覚。
純粋にその感覚を味わって、心に意識を
むけないと、その感覚はいつしか消えて
いき、記憶は力を失う。

そうやっていくと、だんだんと自分を揺り動かす
力をもった記憶が無くなる。
記憶喪失になる訳じゃない。
けれど、過去に怒った記憶でも、意識的に思い出して
みても、体には怒りの感覚がまったく、ほとんど起きない。
参照するデータのように、第三者的に眺めることができる。

瞑想の効果は色々あるけれど、
意識できない効果としては、
心の環境を変えるというものがある。

昔は恐怖や欲望に渦巻いていた心に住んでいる人も、
瞑想をすると、だんだんと平和で温厚な心になってくる。
これは、気づきにくい。

魚が水を意識しないように、四六時中一緒にいる心が変わることは、
とても気づきにくい。



















Category: 瞑想

- 2020年5月22日

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