「    」という考えの檻の中で自由になる方法

「ヴィーガンという概念に囚われているな君は」とある人が言う。
そして「私はそれから解放された」と<概念という檻>に入っている私に言う。
君も目を覚ましたまえ。

しかし、奇妙なことに檻の中にいる私には、
その人が「ヴィーガンから解放された自由な私」という
ピカピカの新しい檻にいるのが見える。
古い檻を捨てて、新しい檻に入っただけではないか。

彼は続けて言う。
「生も死も概念なのだ、私たちはここには存在しない」
深淵な立派な言葉だ。
けれど私は彼が死への恐怖と生への渇望に
突き動かされて生きていることを知っている。
自分でそう言い聞かせているようだ。

恐怖と欲望が襲ってきた時、
「生も死も概念なのだ」と書かれたダンボール製の
シェルターで嵐をしのごうとしていたことに気づくだろう。

友であるあなたに、私が気づいたことを教えたい。
あなたの問題はヴィーガンであるのではない、
問題を起こす他者にあるのではない。
恐れていた事態に、借金に、孤独に、病気に、
あらゆる問題だと思われるものにあるのではない。

超俗的な考え方をしても解決はしない。
いくら考え方(檻)を変えても、解決しない。

たとえば二人の男が予防接種をする。
一人の男は注射が怖く、針から目を背け青ざめている。
もう一人は平気だ。
同じ注射なのに?
注射が怖い男は、問題は注射にあると思っている。
注射が怖いと感じている。
これは正しいだろうか?

あなたなら「注射というのは概念で、注射される人もする人もいない」と
彼に説教し彼も納得するだろうが、いざ実際に注射の時になると
言葉はうすっぺらい、彼は恐怖に震えるだろう。

問題は注射にはない。
それはただのきっかけにすぎない。
問題はあなたの中にあるエネルギーなのだ。

注射が問題なのではなくて、
あなたに巣食う嫌悪という煩悩のエネルギーが問題だ。

ヴィーガンが問題なのではなくて、
あなたに巣食う嫌悪という煩悩のエネルギーが問題だ。

だから、問題ある人がヴィーガンをやめても、
問題は以前として去らない。

なぜなら、嫌悪と欲望と無知が
そのままのエネルギーを保ったまま
その人の中に内在しているから。

注射嫌いの男が
なにか言い訳をして注射を一生受けなくなっても、
嫌悪のエネルギーを保っているので、何か他のものに
恐怖したり激怒したりするだろう。
問題のタイトルが「注射」から、
「会社の上司」にすり替わるだけだ。

どこにいっても何をしても、
自分の奥底が変わらないから変わらない。

結局、注射を避けて、会社の上司を変えて、
彼は以前として嫌悪のエネルギーを持っているので
次から次と問題が起きる。

最近、私はそれに気づいて、問題のタイトルに意識を向けるのをやめた。
むろん、現実的な解決策を考えることは必要だけど、
私が日常生活で怒り恐怖しているのは、
嫌悪という煩悩を持っているからだ。

真の原因は、隣人でも病気でも、心の傷でもない。

解決策を考えても、依然として何も変わらない時は、
今、ここに生起している煩悩のエネルギーをありありと感じ、
それを拒絶したり逃避したりせずに、受容して感じる
瞑想で、煩悩のエネルギーを解放する。

どんな概念を持っているかは問題ではない。
どんな理想的な思想を持っていても、心身が煩悩に蝕まれていたら、
その人生は地獄のようなものになるだろうし、
逆にたいした考えをもっていなくても、心身が清浄ならば
その人生はなんの心配もいらない。

私はこれからも、概念を利用するだろう。
私は今はヴィーガンだ。
でも以前と変わらない。
それは心身の練磨のレベルで変わるものだから。

もしも、明日、私の煩悩が減ったなら、
あなたの言う「囚われているヴィーガン」でありながら、
私は自由に近づくだろう。

もしも、私の煩悩が増えるならば、
あなたが言う「囚われのない自由なやり方」に転向していても、
私は不自由と息苦しさの中に引きずり込まれるだろう。


Category: エッセンシャルヨガ, ベジタリアン

- 2017年12月17日

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