悩まないレッスン

 

 

 

 

悩みの対象はかならず「大事だ!」と思っていることだ。
100均で買ったボールペンを無くしてもぜんぜん悩まないけれど、
誕生日にもらった高級ボールペンが無くなったら「どこで無くした?!」と
右往左往することになる。

同じ出来事がおこっても、他人事だとまったく捉え方が違ってくる。

たとえば、アフリカの見知らぬ国で子供が一人病死したという
ニュースは「かわいそうに」と思うけど、人生が歪むほどの大きな衝撃はない。
きっと今日もかならず病死している子供はこの世界にいる。
だけど、自分の子供が病死したとなると話は別だ。
私の人生は破壊されるだろう。
しかし、世界からしたら「子供が一人病死した」という事実は変わらない。
この違いは、執着の度合いによる。

だから
悩みを減らす方法は、執着を減らすことだ。
大切なものが少ない人ほど悩みがすくない。

子供、お金、体、自分、大切なものへの執着を減らす。
これはコントロールを手放すと言い換えることもできる。
子供の人生は子供のもので、私のものではない。

こう書くと「冷たい」と思う人もいるかもしれない。
でも無執着は無関心とは違う。

無執着の人といえば、ブッダだ。
こういうエピソードがある。
あるときブッダが遠くのサンガ(僧のグループ)を訪れると、
重病で寝込んでいる僧がいるにもかかわらず、だれも
その僧の世話をしていないことに気づく。
僧たちは各々の修行に専念して、病人を放置していたのだ。
そこで、ブッダは病気のときはお互いに助けあって生きることを
指導したという話が残っている。

病人を放置した僧たちは「無関心」だった。
ブッダは「無執着」だった。
違いは「慈しみ」があるかないかだ。

自分の子供を慈しむけど、執着しない。
道具を大切に使うけど、執着しない。
体を大切にするけど、執着しない。


この無執着はどうしたら養えるだろうか。

それは瞑想でも養える。
たとえば呼吸の瞑想では呼吸の感覚に意識をむける。
呼吸はコントロールしない。
短い呼吸でも浅くでも深くても、とぎれとぎれでも、
ただ感覚を感じるだけで、コントロールしない。
積極的に意識を向けるけれど、それをコントロールしない、
純粋な観察にとどまる練習だ。

心にどんな考えや記憶が浮かんでも、それを否定したり
飛びついてしがみついたりしない。
これも呼吸に対するのを同じアプローチだ。
しっかり意識を向けるけど、
手放して観照にとどまる。

瞑想をすると悩みが少なくなる。
瞑想の変わりになる実践はない。
とてもユニークなものなのだ。

 

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Category: 生活を変える方法, 瞑想

- 2015年12月1日

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