アナッターパワー

私は「私」という制限された境界線のなかで
人生を生きている。
「私」には周囲から隔絶された個人としての「私」としての
感覚があるけれど、これは仮想だ。

仏教では、人間は突き詰めていけば
「固定された私」なんて存在しない。
アナッター(無我)であると説いている。

体は「私」の意志とは関係なしに老化して、
死んでいくし「心」も私の意志とは関係なしに
さまざまな連想で、欲望と嫌悪や思いこみにまみれた
言葉やイメージを展開していく。
自分の意志で思い通りにできないものは、
私であるとはいえない。
そう考えていくと、真に私であるといえるものは
何一つなくなる。
「私」は無いけれど、「仮の私」はある。

たとえば、私の車が盗まれたとする。
ロシアに転売された車を、車を探しに店に行ったミハイルさんが買う。
そうなると、ロシアではそれはミハイルさんの者になる。
つまり「私の車」という考えは成り立たず、
「私の車」は期間不明のただのレンタルであることが判明する。

体もいつ使用期間が終わるかわからない。
「私の家族」もいつ去るのかわからない。
この世にあっては、すべてのものはかりそめで、
ゆらいでいる。

もっとも重要な仏教の教えは、
この世は常に変化している。(アニッチャ)
最終的にはコントロール不可能で満足は得られない(ドゥッカ)
つねに予測不能に変化している世界には、
永遠不滅の私など存在しえない。
どう変化するかわからないさまざまな要素が組み合わさった
私(仮)があるだけだ(アナッター)

これを真に理解すると、人生を軽やかに自由に
生きることができるという。
良いことも悪いことも、重荷を担ぐようにして
歩かずにすむ。

どんな悪いことも良いことも、永続しないし、
すべては変化して流れていく。
私も刻々と変わっていく。
良くも悪くも人は変わる。

瞑想などの修行は、自分という集合体をよいものに変化させていくことだ。
学ぶことは、新しい自分に変わることだ。
自分を学ぶことは、自分というものがさまざまな要素の集まりでしかないと
体感することで、瞑想の目的は「私」から自由になることだ。

現在、私(仮)のなかには沢山の欲と嫌悪が存在する。
それがさまざまな場面で、心の表舞台にあがってきたとき、
私はそれを「私の不安」「私の嫌悪」「私の欲望」として
とらえるのではなく「不安」「嫌悪」「欲望」と
握りしめる手を離して感じるようにしている。

「不安」を永続させるものは、「私の不安」をなんとかしようと
する「努力」であることも多い。
「不安」を「不安がる」ことが、さらに「不安」にさせる。
しかし、すべてが確実に過ぎ去っていくのだから、
「不安」は「不安」のままにして見守っていけば
かならず「不安」は消える。
不安を維持する努力を放棄して、観察する。

私(仮)の流れをすみやかにしておく。
以前に比べると、大分、私(仮)は今現在を生きることが
できるようになったし、悩むことが少なくなった。

私が無い、すべては過ぎ去っていく、つねにコントロール不可能で
不満足という一見、ネガティブな真理だけど、
これを少し受け入れると、こころ軽やかに生きていける。

ちなみにこの関連でおすすめの本は、
アーチャン・チャーの「無常の教え」だ。

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Category: 仏教, 読書

- 2016年7月9日

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