壊れた測りを信じる人

人は常に比較している。
あの人よりか上とか下とか。
「いえ、私なんてまだまだです」と
謙遜する人がいい人で、
「おれが最高」という人は傲慢で、
「みんな平等です」と差を認めない人は、
よく出来た人だと思われる。

昨日は知らず知らずのうちに他人と比較して
一喜一憂している自分に気づいた。
これはいい傾向じゃない。

スッタニパータで、
ブッダはこう言っている。
「智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、
世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、
他人よりも「劣っている」とか、
或いは「勝れている」とか考えてはならない」

じゃあ、どう思えばいいのだろう。
つまりは「ありのまま」ということだろう。
事実だけ、脚色せずに持つ。

たとえば年齢。
私は39歳だ。
高齢者の詩吟のグループに参加するならば
「一番の若手でまだまだ若い」と思うだろうし、
高校生のグループのなかに参加したら、
「もう中年のおっさんで若々しさがない」と
思うだろう。
年齢は変わっていないのに、周囲との比較によって
年齢に対する感じ方が変わってくる。
コロコロと変わるものは、真実ではない。
人間だから、いろいろと比較する感想が自然と
思い浮かんでくるだろうけど、
まるでそれは同じ品物を測っているのに、
毎回違う重さが表示される壊れた測りのようだ。
重々しくうけとめる必要はない。

比較しない。
「あるがまま」ってこういうことかもしれない。
比較から他人との競争が始まる。
だけど、本当に向き合わないといけないのは
自分だ。

 


Category: ヨガ的かんがえ

- 2015年12月30日

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