なぜ座って瞑想するべきなのか?

動く瞑想とか、食べる瞑想とか、たしかに色々な日常動作や運動の
感覚を感じる(サティ)をいれると、瞑想になる。

けれど、ヨーガや仏教流派の修行をみてみると、
やはり瞑想は座る瞑想がメインになっている。

どうして、座らないといけないのか?

最近、それが理論としてわかった。
瞑想を深めるには絶対に座ることが必要。
いまからそれを説明してみる。

まず瞑想には、脳が大切だ。
心がどこにある、という話はいろいろあるけれど、
脳がその意識をこの世に顕現するためにとても大きな比率を
占めていることに間違いはない。
だから、瞑想には脳が大きく関わっている。
そして、
さまざまな科学的知見で、脳を鍛える方法が
わかってきている。

その中で、意外だけど効果がとても大きいのは運動だ。
「脳を鍛えるには運動しかない」という
本もあるくらい、運動すると脳が活発に動き、脳内物質が
大量にでる。





そもそも脳は、思考するためというよりかは
人体を移動させるために発達したという話もあるそうだ。
AIなどがでてきて、文明が発達しているけれど、
いまだに人間と同じクオリティで、二足歩行できるロボットは
でてきていない。

不自然な二足歩行は、それくらい複雑な制御が必要な動きで、
さらにいろいろんな種類の運動や、物を搬送したり、
さまざまな動きができる人体は、非常に高度な生物機械だ。

だから、動くと脳が活発に動く、というところはもう間違いのない
ところだし、自分の実感としても、運動すると目が覚めるような
感覚がある。

さて、それならば何故瞑想では、座るのだろうか?
これでは、脳は活発に動かない。
いわゆる脳トレに逆行、むしろ座りっぱなしは体に悪いと
まで言われる現代である。
(ソファに座るのと背骨を自立させて座る瞑想では
同じ座るでも意味が大分違うけど)

だったら動く瞑想としてランニングしたり歩いたりするほうが
優れているのではないか?

しかし、もう一つの考え方がある。
脳は現実を減圧している制御装置であるという考え方である。
脳の限界が、現実の限界。
これは、オルダス・ハクスリーなどLDS(薬物)で超現実を体験した
人も提唱しているし、実際、脳科学の本などを読むと、
脳が膨大な量の情報を持つ現実を検閲し、現実もどきに
置き換えていることは間違いのないところだ。

私の隣にいる猫がみている世界と私の見ている世界は違う。
人体は優れているけれど、人体には感知できない世界がある。
人間の目ではとらえられない光もあり、音もある。

生まれたときから人間で、人間として生きて、これがあたりまえの
現実、これこそが現実、絶対に絶対に正しい、これ以外に
ないと実感している私を超えるには、どうすればいいのか?

古代のヨギーやお釈迦様は、この現実を超越することを目指した。

ヨーガスートラ(経典)は語る。
<ヨーガとは、心の動きを止滅させることである。
そのとき、見る者は本来の姿にとどまる>

つまり、現代人の文脈で書くと、
<座る瞑想で脳の働きを停止させると、脳に依存していない
意識があらわれる>

ということだ。

つまり、座る瞑想は、体を不動にし、思考も働かせずに
自然に脳を鎮め、非物質の世界に触れるという行為だから、
必然的に座る必要がある。

動きに脳の活動が伴うのならば、
動かないことで脳を鎮静状態にもっていこう、とする方法。
それが座る瞑想となる。

これを目指すとなると、やはり古代の
アシュタンガヨーガ(八支則のヨーガ)のような
階梯がとてもいいのではと思う。

マイナスの影響が出ることはしない(ヤマ)
プラスの影響がでることをする(ニヤマ)
座り方を極め(アーサナ)
生命エネルギーを制御し(プラーナヤーマ)
外界との接触を断ち(プラティヤハラ)
集中力を高め(ダーラナ)
無努力でそれが継続し(ディヤーナ)
悟りにいたる(サマディ)

理屈っぽい私は、頭で理解してこそやる気がでる。
道筋は見えたからあとは実践あるのみだ。

しかしいまいちプラティヤハラ(感覚の制御)が
わからない。
そんなこと可能なんだろうか??















Category: アシュタンガヨガ

- 2020年11月25日

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