子供の保育園は歩いていける距離にあるけれど、
送り迎えは奥さんが車で行っている。
このあいだ、たまたま私が迎えに行くことになった。
春の風景を見ながら歩いて保育園まで歩いていくことにした。
子供を連れた帰り道。
手を繋いで子供のペースでゆっくりと歩いていると、
道端にツクシが生えているのを発見した。
長い冬が開けた証をみたようでうれしかったけど、
ふと気づく。
この道は行きも一人で歩いてきた道で、
行きも帰りもツクシは生えていた。
行きは、さっさと保育園に行くという目的のために
見向きもせずに通りすぎた。
でも、帰りは歩くのがゆっくりな子供のペースだから
ツクシが生えていることに気づけた。
これは生きることにも共通するんじゃなかろうか。
効率的にスピーディーに生きていると、たくさんの道端の
ツクシ的なものを見逃している。
資本主義社会での仕事は最大限の効率を求められる。
それは仕方ない。仕事はスローライフできない。
そもそもそういう性質のものではないからだ。
しかし、プライベートまで効率やスピードを重視するのは病気だ。
子育ては効率的にはできない。
旅行も、駆け足で観光地をまわっても後に残るものはないだろうし、
読書も速読したら薄い印象しか残らない。
ゆっくりと歩くことを感じて歩くことは瞑想になる。
ただ呼吸しているだけの状態にあることも瞑想になる。
スローに生きることは瞑想になる。
私にとって瞑想は人生のスイッチを切り替えるものだ。
自分を走らせるアクセルを持つ人は多いけど、
ブレーキを持つ人は少ない。