フュージョンライフ

人間に肉食は必要?

私は動物性のものを極力食べないヴィーガン(月に数回、魚は口にする)だ。当然のごとく「人間に肉食は必要ない」と思っているが、この問題は結構複雑だ。

この間、娘が美味しそうに牛肉を食べているのを見せつけられた。父をからかうのが大好きな小1の娘は私に見せびらかすように食べていた。ヴィーガンの父をもつ娘だが、彼女にはだいたい日本の一般的な食事をとらせている。

ヴィーガンの子供なのにヴィーガンじゃないの?

ヴィーガンはアウトサイダーの道だ。小学生には重すぎる。「どうしてお肉を食べないの?」という質問に答えるには、ありのままを話さないといけないけれど、そのありのままはおとぎ話のようではない。

動物たちは地獄のような目にあっている。事実をありのままに話したら、繊細な娘は世の中をどう見るようになるだろう。なんの疑問もない、楽しいだけの子供時代に終止符は打たれないだろうか?
小さい心は張り裂けてしまうだろう。

現在の娘が見るのは、肉屋の笑って踊る牛の絵だし、綺麗にパックされて悲鳴も出血もしない製品としての肉だ。

地獄のような現実は、綺麗にパッケージされて、あたかも無かったことのようになっている。世の中の粉飾する力にまかせ娘をあえて無知においておくいずれ大人になって判断力がついたら、すべてを告げようと思う。

スーパーに並ぶ肉を買うことに罪悪感はない。そこには生前の動物のぬくもりもなければ、悲鳴もない。ただ静かで冷たい死肉が綺麗にパックされてならんでいる。自分で殺せばおこるはずの罪悪感はパックの肉にはない。殺しは人目につかないところで他人が代行して秘密にしている。世の中は人々を無知にさせる化粧にあふれているのだ。(何故、まぐろの解体ショーはあって、牛や豚の解体ショーはないのだろう?それは同類である哺乳類の解体など見たくないからだ)

肉食をやめるのは簡単な道ではない。生まれてから今まで、さまざまな方法で洗脳されているからだ。でも、その洗脳を解けば、肉を食べないということは難しいことじゃない。肉を食べることのほうが不自然だからだ。

本来の食性に戻るためにまず破るべき洗脳は、「人間は肉を食べないと生きていけない」という洗脳だ。これは冷静に疑ってみれば、嘘だとわかる。

たとえば、原始時代のサバンナ、目の前に牛がいるとする。人類にもし肉が必須ならば、生まれたままの状態で、肉を食べられるはず、、だけど、現実はそうではない。

まず、素手で野生の牛を殺せる人間はいない。体重も筋力も劣る人間は手も足も出ないままに跳ね飛ばされてしまう。

もしも、牛を倒せたとしても、次は分厚い革を裂くことができない。人間の爪と歯は飾りみたいなもので、動物の革を裂くなんてハードなことはできないのだ。

もしも、奇跡的な執念で革をさいて、内蔵を食べることができたとしても、今度は食中毒の問題がまっている。炎天下のサバンナで加熱されて、急速に腐敗していく肉を生で食べるのは軟弱な胃腸をもつ人類にとっては命取りだ。

近代的な加工施設と冷蔵技術が発達した現代でも、生肉を食べて食中毒になって死んだ人がたくさんいる。

肉食動物のように、短い腸と強力な胃液を持たない人類は、生で肉を食べるのは危険だ。
そんな危険で不可能に近いことをしなくても、果物や野菜は、ほとんど加工しなくても食べられるし、食中毒の恐れも無い。(私はいまだかつて「野菜にあたった」という言葉を聞いたことがない)人間は植物性のものを食べるようにできているのだ。だから、人間には肉は必要がない

人間が肉を食べることは、不自然なことだ。ゲームでいえば裏技みたいなもので、そんな裏技を繰り返すとさまざまな病気になってしまう。
万が一、病にならなかったとしても、殺生は罪深い。

90歳を超えた僧侶の瀬戸内寂聴が、美味い美味いとステーキを食べていても、殺生は悪い。
やめられるなら、やめたほうがいい。

必要のない命を貪り食って生きるって、良くない。それを知らない、ということが一番恐ろしい。
知らないから、同じことを何度も繰り返してしまう。