フュージョンライフ

100歳でも新しいことを学びますか?

 

若いころはバカなことを考えていた。
歳をとっていざ死ぬのを待つだけになったら、
マリファナでもLSDでもしてトリップ体験とやらを
経験して死のうと思っていた。
どうせ死ぬ身だし、なにをしても平気だ。
だったらとびっきり馬鹿げたことをしてみたいと思っていた。
その当時は「体の死=なにもかも終わり」の物質主義者だった。

でも、今は死ぬ前こそがもっとも大切だと思っている。
というのも、いまは来世を信じているからだ。

よく人は死んだらどうなるのか?
来世はあるのか?と考える。
死後の世界という言葉はよく目にする。

そんなものがあるのかないのかよくわからない。
未来はまだ未定だからだ。
でも、過去は遡って考えることができる。
今の自分から過去の自分を想像する。

人生の基調となるテーマがある。
人は知らず知らずにして、そのテーマに近づく選択をし、
失敗したり成功したりしながら、
本来の人生に近づいていく。
私には私のテーマがあり、他の人には他の人の道がある。

前世の片鱗は、人生のそこかしこに満ちている。
たとえば、生まれながらの才能を持つ人がいる。
ちなみに私は作文で苦労した記憶がない。
これは前世でも作文をしていたから、
その訓練の成果が継続して、今世に引き継がれているのだと思う。
瞑想などに興味があるのも、前世からの継続だし、
武術的なことに興味があるのも前世からの継続だ。
どれも、学ぶとすぐに理解できてまるで以前から知っていることを
再確認しているかのような感覚がある。
今の私は、ようやくスタート地点にたった気がしている。
前世の私が死に、赤ん坊として生まれた私がさまざまな紆余曲折を得て、
ようやく前世の私に繋がった。

だけれども前世の記憶は無い。
だが、前世の自分がいったい何を修行していたのか、
その片鱗と、渡されたバトンはハッキリとわかる。
前世の人格や言語や文化はすべて死で破壊され、
物質的に死滅して、その行動や思考のエッセンスだけが、
心のエネルギーの中で再構成されて、新しい人体を
得て、ここに私はいる。
そう思う。

長い長いバトン競争だ。
私にバトンを渡してくれた人のことを私は知らない。
だけど、バトンが手にあることだけはわかるし、
そのバトンがどこに向かうものなのかもわかる。
私も次の私にバトンを渡すだろう。

だから、死を前に薬中になるなどというのは、
来世の方向性を歪める馬鹿げた行動だ。
バトンが歪んでしまう。

いままで、生きて死んで生きて死んでで
少しづつマトモになり、さらに進歩しようと
生と死のバトンを繋いできた前世の前世のさらに前世、
気が遠くなるほどの輪廻の海の中で、
陸地に辿り着こうともがいてきた前世の私の努力を
汚すことになる。

死んでも、行動と思考のエッセンス(カルマ)は継続すると
信じる私は、100歳でも学ぶことをやめないだろう。
その学んだ記憶は失われても、そのエネルギー、エッセンスは
来世の私に影響を与える。

輪廻があるかないか、そんな仰々しいことを考えなくても、
日々の人生もそうだ。
昨日の私の行動と思考は、今日の私に継続されて、
明日の私に繋がる。
3日前の私と今の私はすこし違う。
10年前の私と今の私は大分違う。
3歳の頃の私は40歳の私はまったく別人だ。
肉体を構成する物質も、考えもまったく継続しているものは
ないけれど、だけれども3歳の私と今の私は同じバトンを
共有する私なのだ。

来世を信じずに、もう歳だからと自暴自棄に向上心なく
生きるのは、40歳の私には70歳の私が想像もつかないし、
生きているかもわからないからと老後の蓄えもせずに
放蕩三昧で生きるのと変わらない。

来世を信じなくても、100歳と13日に学ぶならば、
100歳と14日にはすこし賢くマシな人間になっているだろう。
たとえ肉体は老いて、見る影をなくしても、
それでも人間は進歩できるものだと思う。
それが数値化できず、計測不可能なものだとしても。