瞑想は、とにかく長い間座るのが理想的だと無意識に信じていた。
たしかに、ウ・ジョーティカ師の本にも一回3時間座ることができれば、
心は深く静まると書いてある。
でも、歯を食いしばって長いあいだ座るのは本末転倒だ。
私はいままでは一回にどれくらい瞑想できるか?という
持続時間を伸ばすのが時間的目標だった。
最近は一回1時間。
これでも精一杯。
終わったあとは、ちょっと横にならないと
疲れて次の行動に移れない感じで、
しかも後半は、心の中で、
「もうそろそろ1時間かな?」
「まだかな?」
などというつぶやきが頻発し、意志力でなんとか
1時間、やめずに無理やりやっているという
クオリティの低い状態だった。
たしかにこれはこれで意志力の強化にはなる。
けれども、肝心の瞑想力の強化にはなっていなかった。
それならば、いっそ、1回の時間を短くして、その分回数を増やしたらどうだろうか?
これは筋トレの知識からきている。
たとえば「筋肉」を増やすには、1回あたりの回数を増やし、
筋肉を疲弊させる必要がある。
その場合は、たとえば腕立て伏せ25回を2セットする。
筋力を増強したい場合は、やり方が異なる。
筋力は強い力を発揮する運動を、少ない回数する必要がある。
この場合は、片手腕立て伏せ5回を10セットと、
筋肉が疲れないように、力を発揮する神経系を鍛える必要がある。
同じ総数をおこなうとしても、効果が異なる。
思えば、瞑想の伝統にはさまざまなやり方がある。
ウ・ジョーティカ師の属するテーラワーダ仏教の伝統は、私が知る限り1回の瞑想時間を長く行うというやり方でおこなっている。
しかし、禅宗の曹洞宗では、1回に座る時間は約45分。
線香が燃え尽きる時間が、1回の瞑想の単位で、
座禅を集中的におこなう
60分を1回と30分を2回では、時間は同じ。
しかし、一旦、休憩を挟んでの2回×30分のほうは、
集中力が切れない分、クオリティは高い。
長い時間を瞑想するのは、観察瞑想(ヴィパッサナー)の側面が強い。
短い時間を複数回するのは、集中瞑想(サマタ)の側面が強い。
短時間、複数回は集中瞑想よりの方法だけど、
集中と瞑想は切っても切れない関係。
たしか六祖壇経だったと思うけれど、
集中と瞑想の関係を、ロウソクにたとえていた。
炎が集中で、それによって暗闇が照らされて、観察されるという
ような表現をしていた気がする。
うろ覚えですまんけど。
短い瞑想を複数回しようといろいろ調べてみた。
たとえば、安泰寺の座禅スケジュールを検索してみると。
攝心という集中的に座禅する期間は、
<5日攝心の一日は、45分の坐禅が15回。経行が毎時、各15分です。5日攝心の5日目の16時ころ攝心が終了します。>
とある。
つまり45分、座禅して15分間、経行つまりゆっくりとした歩行禅をおこなうというスケジュールだ。
しかし、正直にいうと、いまだ初心者の私にはこのスケジュールはきつい。
余裕をもって楽々とおこなうために、
ポドローモテクニックの時間割を採用した。
25分やって、5分休憩するというやり方だ。
25分瞑想して、5分横になってシャバーサナ(屍のポーズ)で回復という
流れを2回すると50分瞑想できる。
そうすると、思惑どおり1回1回の瞑想がクリアで深い。
ひたすら耐える時間が少ないので、疲労も少なく、
結果、回数を多くおこなえる。
比較すると、いままでの一回最低1時間方式だと、
一週間で平均250分、瞑想していた。
(サボっている日が多いよね、、、、)
このポドローモテクニック方式にしてからは、
ぐっと増えて瞑想時間418分になった。
しばらくは25分、休憩5分を続けて、
すこしづつ45分、休憩15分形式にしてみようかと思う。
瞑想の中身はゴエンカ式ヴィパッサナー(テーラワーダ仏教)
で、時間割は禅(大乗仏教)というハイブリッド。
人生は自分の適性にあったやり方を試行錯誤する実験なんだよね。