火から立ち上る煙は、
ゆらゆらと形をかえて、とらえどころがなく
手であおいでも、火が消えないことには煙はなくならない。
悩みはまるで煙みたいだ。
あおいでもあおいでも、形を変えるだけで一向に
なくならない。
あるときは恐ろしく巨大な黒雲のようになって
私達を包んだりする。
煙を仰ぐと、いっとき消えるけど、
火が消えないうちはまだ煙にまかれる。
煙を消すには火を消すしかない。
ここで言う
「煙」というのは「概念(考え)」のたとえだ。
形がなく、千変万化して、私達に人生を見えなくさせる。
瞑想では、意識を煙ではなく、火(感覚)にむける。
それは今ここにある身体感覚だ。
怒っているとき、そんなときは
「何故私は怒っているのか、怒らせた人が
いかに非道なのか」という煙をあおいだりせずに、
実際に、体の中で燃え盛るリアルな「火(感覚)」に
意識をむける。
煙を相手に戦っても、あるときは煙は消えたように
感じても、火元が燃え盛っているから意味が少ない。
感覚に意識をむけるとこと、それ自体にパワーがある。
怒りのエネルギーは少しづつ消えていき、
やがて、いままで私を取り巻いていた仰々しい煙が自然に消える。
煙を相手にすると、延々と不毛な戦いになる。
だけれども、今ここにある体の感覚となって現れている
エネルギーに意識を向けると、火は消えていく。
これは私には何故だか説明ができない。
だけど<気づき>そのものにパワーがあることは確かだ。