あなたの信仰はなんですか?

人が「何かを信じずに生きる」ことは不可能だ。

ある人の前に「神様を信じなさい」と勧誘してくる
信者が現れる。

「私は何も信じていません。無宗教なんです。お帰りください」

でも、そういう人の前に大富豪が現れると、
目をキラキラさせて「あなたの成功の秘訣を教えてください」
とまるで現人神でも崇め奉るように信奉するかもしれない。
その人の信仰は「金」だったということだ。

「権力」「健康」「人」「宗教」「会社」などなどと
信仰のバリエーションは豊富だけど、
まるっきりあらゆる価値観に心ひかれず、
独り立ちして生きる人はまずいないだろう。
「私は何も信じていないのです」と言う人は、
その自分の考えを信じているという信仰を持つから、
やはり人は何かを信じて生きるしかないのだろう。

前置きが長いけど、じつは私が違和感を覚える
言葉がある

「お客様は神様です」

どうも日本のサービス業の人たちの無意識にこれが
あるのではないかと思う。

お客様は店のサービスを利用して、お金を払ってくれる。
だけど、お金を払ったくらいで人は神様にはなれない。
正しくは「お客様はお客様です」だ。
誠実に対応する必要はあるけれど、
けっして神ではない。

私は旅館などに行って、過剰に丁寧にサービスされると
「いやいや、そんな頭下げなくてもいいじゃないですか」と
内心恐縮してしまう。
神様扱いではなくて、人として接して欲しい。
神様じゃないのに神様扱いされると「いやいや違うし」と違和感ありありだ。
ワタシ的には親しみのある対応が一番楽だ。
「道で出会った親切な人」みたいな感じが理想。
内向的な私はいきなり友達のように話されるのも違和感がある。

「お客様は神様です」

もしも、あなたの信仰が「お金」ならば話は別だ。
お金をもってきてくれる人は神様かもしれない。
お金を払う客がその価値観だと「お客様は神様だ」と、
傲慢な態度で店員さんに接するかもしれない。

何を信じるかによって、価値観は決まってくる。
もしも現代社会にフラリとブッダが帰ってきたとして、
(生まれ変わる原因を滅ぼしたブッダが生まれ変わるなんてことは
絶対にないのだけれど)
もしも、お金を信じて、その有無で価値判断をする人の前にきたら、

「なんだこいつ、継ぎ接ぎだらけの服(糞掃衣)だし、おまけに靴も履いてない。
腕時計もなし。持ち物は鉢だけ?無一文のホームレスだな」
と判断し、ブッダが真理を説いても、

「いやいや、そんな偉そうな事言っても、実際あんた成功してないじゃん。
なあ、年収は?ぜんぜん金稼いでないでしょ?あんたの言うことを実践して、
あんたみたいなホームレスになるのなら、煩悩ありありで上等だよ」
と言い放つだろう。
つまりすべは判断は「お金」という信仰によってなされる。
だからいくら素晴らしい人でもお金が無いのは論外なのだ。

だけど、心の問題で悩む人ならば「師よ!」と行って
ついて行くだろう。

ちなみに私の前にブッダが現れて「出家しようか」と誘われたら、
うーん、家族はやっぱり捨てられないし、
「すいません、通いの弟子にしてください」と熱心な在家信者になるだろう。
でも、自分を殺しにきた殺人者を弟子にするくらいのカリスマの人だから、
実際に目にしたら「師よ!」と言ってついていくんだろうなぁ、、、、
まあ、ブッダがいないからただの思考実験だけど、、、、

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お金は道具として必要だ。
だけど信仰の対象にすると、道具が主人になる。


Category: ヨガ的かんがえ

- 2015年8月16日

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