逃げ出した豚をみて食生活を考える

高速道路で養豚場のトラックが事故をおこして、
豚が道路に逃げ出すという事件をニュースで見た。
逃げた豚は、とてものんびり道路を歩いていた。

トラックの目的地は屠殺場で、あえなく捕獲された豚たちは
予定通り運搬された。

このニュースを夫婦で見ていて同じ感想をもった。
「自分じゃ殺せない、、、」だった。

もし私が豚を殺さないといけないとなると、
豚を捕まえて、包丁で出血死させるか、ハンマーのような
もので頭蓋骨を砕いて、撲殺するという手段を思い浮かべるけれど、
どれも精神的な抵抗感が大きすぎて、できそうにない。

そもそも歩いている豚をみて、
「かわいい」と思ってしまう時点でもうダメだ。
豚をみると、歩き方などから自然と豚の心情を
思い浮かべて、すんなりと豚に共感できる。

母乳をあげて子育てをして、豊かな社会性をもった
動物となると、種として近いから、
共感性が自然と起きる。

魚と比較してみるとわかりやすい。

大きなスーパーなどではマグロの解体ショーという
ものがある。
テレビなどでも放送されているけれど、
これが豚の解体ショーとなると、放送禁止だ。
豚がスーパーで解体されている姿をみて、
スーパーの売上も伸びるわけがない。
残酷な印象を感じてしまう。

youtebeに豚の屠殺のシーンがあったけれど、
見てみると精神的に凄い抵抗がある。

偽善者と言われるかもしれないけれど、
あの悲鳴を聞いたら、やっぱり私はできない。
悲鳴には「助けて、やめて」という意味が感じられるからだ。

自分の手で殺せないものは食べることは
不自然なのではないか?
そもそも自分の手で殺せないものが、
人体に必要なのだろうか?
心と体が分けられない1つのものならば、
心が拒絶するものが体に必要なのだろうか?

そもそも日本は、獣肉を食べない国だった。
明治あたりから、西欧に追いつけ追い越せで
食生活の改革があって、肉食をするようになったけれど、
それまでは肉食が禁止されていた国だった。
伝統的な和食料理に、獣肉を使ったレシピがないのは
そのせいだ。
でも、ベジタリアンの国でもなかった。
魚介類はしっかり食べていた。

江戸時代に日本にきた欧米人たちの目に
肉食をしないかれらはどう映ったのか?
肉を食べないから元気がなく、栄養失調で
つねにイライラしていたのか、不平不満が
満ちていたのか?

その目撃談の書かれた「逝きし世の面影」
から、一部を抜粋。

「誰もがいかない人びとがそうでありうるよりも、
幸せで煩いから解放されているように見えた」

「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」

「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えずしゃべり続け、笑いこけている」

「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」

「この民族ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして、子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」

「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。
群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人よりも敏感でないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける心労にうちひしがれた顔つきなど全く見られない。
頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われる」

「みっともない格好の女は、休息した場所でふつう置いてゆくことになっている小銭を断固して受け取らなかった。私がお茶ではなく水を飲んだからというのだ。私が無理に金を渡すと、彼女はそれを通訳に返した。」

「家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇をとりだし、まるまる一時間も私を煽いでくれた。
代金を尋ねるといらないと言い、何も受け取ろうとしなかった、、、それだけではなく、彼女らは一包のお菓子を差し出し、主人は扇に自分の名を書いて、私に受けとるよう言ってきかなかった。
私は英国製のピンをいくつかしかかれらにやれないのが悲しかった、、、私は彼らに、この国のことを覚えているかぎりあなたたちを忘れることはないと心から告げて、彼らの親切にひどく心をうたれながら出発した」

「この国の人びとの欲望を単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。何となれば贅沢の禁令は、古来すこぶる厳密であり、上流階級の食事とても、至って簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人びととさほど違った食事をしている訳ではない」

「この国がほかの東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人びとの館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない」

「家具といえば、彼らはほとんど持たない。一隅に小さなかまど、夜具をいれる引き戸つきの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る漆塗りの小皿が皆きちんと並べられている。これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで充分に、公明正大に暮らしているのだ。ガラス張りの家に住むが如く、なんの隠し事のない家に住むかぎり、何一つ欲しがらなかったあのローマ人のように、隣人に隠すものなど何もないのだ」

人びとの生活は上は将軍から下は庶民まで質素でシンプルだということである。「富者も貧者もない」というのはそういう意味だ。

「彼らの全生活に及んでいるように思えるこのスパルタ的な習慣の簡素さのなかには、賞賛すべきなにものかがある」

「たしかに、これほど厳格であり、これほど広く一般的に贅沢さが欠如していることは、すべての人びとにごくわずかな物で生活することを可能ならしめ、各人に行動の自主性を保障している」
幸福よりも惨めさの源泉となり、しばしば破滅をもたらすような、自己顕示欲にもとづく競争がここには存在しない。

「気楽な暮らしを送り、欲しい物もなければ、余分の物もない」

「役人は交渉が始まろうとしているのに、いつまでも座りこんで、喫煙したり、あたりを眺めたり、あたかも気晴らしにでも出かけているつもりらしい。そしてこういう場合なのに、お茶を飲んだりお菓子を食べるという暢気さである。その上、彼らは真面目くさった顔で、想像もつかぬ冗談を言うのである」

「この国の働き手、すなわち野良仕事をする人や都会の労働者は一般に聡明である、器用であり、性質がやさしく、また陽気でさえあり、多くの文明国での同じ境遇にある大部分の人より確かにつきあいよい。彼らは勤勉というよりも活動的であり、精力的というより我慢強い。日常の糧を得るのに直接必要な仕事をあまり文句も言わず果たしている。しかし彼らの努力はそこで止まる。必要なものはもつが、余計なものを得ようとは思わない。大きい利益のために疲れ果てるまで苦労しようとしないし、一つの仕事を早く終えて、もう1つの仕事にとりかかろうとも決してしない。」

「私はこの国が子供の天国であることを繰り返さざる得ない。世界中でこの国ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われてる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい」

「一般に親たちは幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている。親は子供の面倒をよく見るが、自由に遊ばせ、ほとんど素裸で路上を駆け回らせる。子供がどんなにヤンチャでも叱ったり懲らしめたりする有り様を見たことがない。その程度はほとんど溺愛に達していて、彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない」

「子供は非常に美しく可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどに優れた理解をもっている。しかしそのできの良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら、父母は子供を罰したり、教育しないからである」

「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつある1つの美点。すなわちこの国の子供たちは自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を充分に楽しみ、大人ぶることがない」

「世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、この国の子供に如くものはない」

「親は子供をひどく可愛がり甘やかすが、同時に子供に対してけっして手綱を放さない」

「彼らの注がれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良い所を伸ばすようにおもわれます。この国の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりしません。晴天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さずに父や母に話し、一緒に喜んだり癒やしたりしてもらったりするのです」

「小さい家庭では子供がすべてを牛耳っていて、それでもけっして彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくとみなされる歳になると、(いずれも6歳から10歳の間ですが)彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただ一日のうちに大人になってしまうのです」

「この国の人びとの死を恐れないことは格別である。むろんその近親の死にたいして悲しなまいというようなことはないが、現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ。彼らはその肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他の天災をば茶化してしまう。」

「大火事に見舞われても人びとはいつに変わらぬ陽気さと暢気さを保っていた。不幸にみまわれたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしなかった。持ち物をすべて失ったにもかかわらずである。この民族の性格の中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮させる勇気と沈着である」

なんて立派なご先祖様たちなんだろう。
この豊かなメンタリティに寄与しているのが、
日本の伝統的な食事であることは間違いがない。
メンタルと食事は深く関わっているからだ。

西洋人がベジタリアンみたいな食事をしようと思うと、
果てしない試行錯誤が待っているけれど、
伝統的な和食料理を食べて生きることができる日本は恵まれている。

魚は食べるけれど、肉は食べない人のことを
ペスコベジタリアンというらしい。
豚や牛や鳥を自分で殺さないからといって、
別に困ることがない食文化があるのなら、
さっさとそうすればいいんじゃないか。

いままでわが家では、月に数回、鶏肉や豚肉を食べていた日が
あったけれど大人に関しては魚介類を食べて生きよう。

理想的なのは完全な菜食者なのだけど、
痩せすぎる体質の私は、それで健康を維持できる自信がない。
菜食者になるには、生活すべてを菜食に適した状態に
しないとけっこう難しいのではないか、と思っている。
(出家するとか)

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Category: ベジタリアン

- 2017年6月12日

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