無意識を再プログラミングする

 

若い時、私は子供があんまり好きじゃなかった。
さわがしくて、何を考えているのかわからないエイリアンだった。
なるべく避けて通っていた。
しかし、いまでは小さい子供をみると、
かわいいと素直に思う。
なんという変わりようだろうか。

これが歳をとることなのかと思ったけれど、
加齢というよりか、経験が私を変えたんだろう。
結論からいうと、
自分の子供と関わる時間が私を変えた。

遊び好きで、とても繊細な世界を持ち、
喜怒哀楽にまだ大きな嘘がつけない素直さ。
大人よりも優しさを必要とする弱者だけれど、
ときには大人よりも立派な行ないをする。

自分の子供で、子供という存在が理解可能になると、
かわいいと感じられるようになった。
とくに小さい子供を見ると、自分の子供の小さい時分と
ダブって見えて余計に可愛い。

経験によって人は良くも悪くも変わる。

私の中には無数の偏見のリストがあって、
それは無意識に機能している。
歳をとると、その無意識の偏見の積み重ねで
人間が固定してしまって変わることが難しくなる。

だけれど、その機能している偏見を1つ1つ
意識化していけば、変われる可能性が増える。

たとえば、私の中には「大阪の人が嫌い」という
偏見がある。
これはたまたま最近知り合った大阪人の二人が
両方とも嫌な感じの人たちで、その二人=大阪人というリンクが自分のなかに
できたことが原因だ。

これは限られた経験をすべてだと判断する無意識の作用から
生まれた偏見だ。
これはこれで有益な装置だったりする。

もしも、サバイバル時代で危険な部族と遭遇したら、
無意識的にごちゃこちゃ考えずにその一人二人の
挙動をその部族のすべただと判断して、用心するのは正しい。
カラフルな毒蛇に仲間が噛まれて死んだなら、
すべての蛇に用心するのが生き残る可能性を高める。
刹那に機械的に反応しても問題ない。

でも、平和状態に生きるのなら、
出身地が大阪というだけで偏見の目を向けるのは問題だ。
金沢にだって多種多様の人間がいて、
これぞ金沢の人という代表的人物など存在しないからだ。
金沢のお茶の先生と、金沢のヤクザ。
どちらも金沢の人だから、金沢という土地に住むという
カテゴリで人を判断することはできない。

大阪の人だってそうだ。
私のように生活をしながら瞑想に励む同志もきっといる。
ひどい奴もいれば、気のいい人もいる。

経験は「大阪のやつは嫌なやつらだ」と囁くけれど、
これは完全なる偏見。
偏見は偏見であると自覚される変えることができる。

人には機械的に瞬間的に反応して働く無意識と、
知性を源にする意識がある。

私の無意識は「大阪人」ときくと、嫌悪感を抱くけれど、
私は意識的に、それを偏見と退けて、人をそれぞれ個別化して
大阪人という嫌悪のフィルターを外していくだろう。

しかし、これがすべてに応用できるかというと心もとない。
これが紛争の原因だ。人間性の限界なのかもしれない。

たとえば、私が金沢人をターゲットにする大阪人のテロ集団に
子供を殺されたら?
私の無意識的反応から嫌悪を抜き去り、出会う大阪人を
一人の人間としてクリアに見ることはできるだろうか。
そして、その大阪人も他の金沢人からの報復で愛する人を失っていたら?
私達はお互いの無意識の嫌悪から逃れ、
一人の人間としてクリアに話ができるだろうか。

鏡は考えることなしに人の姿を映し出す。
外部の反応に考えることなしに反応する無意識を持つ私達は
お互い歪んだ鏡だ。
私とあなたの目に、無意識的憎悪が宿っている時。
その歪んだ鏡を正して、平和に導く力はあるだろうか。
人はそこまで賢明になれるのだろうか。

ガンジー。
マーティン・ルーサー・キング。
ネルソン・マンデラ

彼らは、人々に報復の道ではなく、
平和の道を説いた。
抑圧され、虐げられて、それでも報復を選ばずに平和を
選ぶ人たちが人類のかがり火だ。

話はだいぶそれてしまったけれど、
機械的な人間としても生きられるけど、
人は奇跡のような存在にもなれる。

私はだいぶん劣った人間だから、
まともな人間になるのは結構難しいけれど、
日々、意識的に生きるようにすれば
ちょっとはマシになれるはずだ。

無意識と意識の関係について書かれた本。
もう一回再読してみようかな


Category: ヨガ的かんがえ

- 2016年8月21日

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