夢を叶える、じゃなくおこなう







10代の頃、友達のサカモトくんと夢を語り合った。
私は小説家、サカモトくんは漫画家に成りたかった。
とりあえず東京に行こうとそれぞれ石川県から上京し、
私もサカモトくんも、東京で右往左往して、夢やぶれて帰ってきた。

夢は叶わなかった。

しかし、よくよく考えると、私は「小説家」というスティタスに憧れていたのだ。
なんだかカッコいい商売に思えたのだ、旅行してホテルに泊まって、小洒落たエッセイなんて描いて、先生!先生!言われて、ファンにサインして、もう知的!カッコイイみたいなイメージ。

小説家になれなかったことは、いまでも時々思い出す。
でも、ふと気づいた。

プロの小説家になれるか、なれないか、は世間様が決めることで、
私のコントロール下にないけれど、
小説を書くことは、夢をおこなうことはできる。
完全に自由だ。

刑務所の中でも、紙とペンがあれば、私は夢をおこなえる。

いや、今はとくに小説家になりたいと思っているわけではないけれど、
ここんところ、勘違いしている人が多いのではないかと思う。

あなたは歌手に成れないかもしれないけれど、歌うことは自由だ。
サカモトくんは漫画家になれなかったけれど、漫画を書くことは自由だ。
小説家に成れなかった私も、小説を書くことは自由だ。

結果を気にしていたら、心が折れて好きなことが続けられない。
好きなことを好きに行うことだけに心をこめて行うことは自由だ。

結果を気にすることは邪心なのだ、と気づいた。

瞑想するときも、たとえば「瞑想が深まって悟りを開くぞ」という結果ばかり
考えて行うのは邪心、修行ならぬ邪行だ。

そうでなく、瞑想中は純粋に瞑想をおこなう。
そんな純粋な行為ならば、修行となり、
結果的に悟りにつながるかもしれない。

何々すると、こういう結果になるという未来に心を奪われて、
その行為が純粋ではなくなり、結果的にきちんとした結果もでない。

そういうことが横行している気がする。

行うことで完結する世界に生きる。
そんな生き方をしていこう。



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- 2020年9月3日

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