ヨガの教え「足るを知る」を理解させてくれたストア派の賢者

「足るを知る」というのはヨガではサントーシャという。
ヨガの教えの中ではこの行動は「行うことをお勧めします」というニヤマというカテゴリに属するものだ。

この概念は私の中で中々、「これだ!」という理解ができなかった。
「足るを知る」は一筋縄ではいけない。これを間違って解釈するとえらいことになる。

ぐうたらな人がソファで横になって、「今のおれで十分、これって「足るを知る」だよね」という生き方、成長を目指さない生き方を肯定する言い訳にも使える。たしかにこれも言葉通りに足るを知るを受け取ればそうなる。
(ここでは追求しないが「ありのまま」とか「自然に」という言葉も、悪くするとぜんぜんありのままじゃない悪習慣の塊になってしまった自分を肯定する言い訳に使えてしまう)

人生に正しい努力は必要だ。
同じニヤマ(やるのお勧め)のカテゴリにはタパス(鍛錬)という行動がある。「足るを知る」と「鍛錬」の両方がお勧めされちゃっているのだ。

たとえば、体で考えたら今のままの自分の体に満足し足るを知る事と、いかんいかんと鍛錬することは両立しない。

現状維持で満足なのか、それとも鍛錬なのか、いったいどっちなんだ?

という疑問に答えてくれたのが、ヨギーではなくストイックの語源ともなったストア派の賢者エピクテトス

「肉体の要求が所有の尺度であるのは、足が靴の尺度であるのと同じである。ここに留まるなら、きみは節度を守ることができよう。
しかしいったんそれをこえれば、きみは、いわば深淵に陥ること必定であろう。
たとえば靴についてもちょうどその通りである。
一度足の要求をこえれば、まずメッキされた靴、次に真紅に染められた靴、次にはまた刺繍された靴という順序になる。
なぜなら物はいちど尺度をこえればもはや限度がないからである。」

エピクテトス先生、これがいわゆる「サントーシャ(足るを知る)」なんすね!と私は大納得。

つまり「足るを知る」というのは欲望の「もっともっと」という要求を退ける行動なのだ。

際限のない欲望にたいして行なわれるもので、人間的な成長にたいして適応されるものではないのだ。

肉体の欲求を満たすだけの物資を尺度をする。
これは難しい。

水分摂取は水が白湯にするのが「足るを知る」だけど、最近、また緑茶を飲み始めてしまった。(1年くらいカフェインレス生活をしていたんだけど、、、)

シンプルな時計が仕事に必要だからとチープカシオの時計にしたんだけど、心拍トレーニングをするからと嫁の不要になったfitbitを貰い受けて活用したり。

本物のストイック(ストア派実践者)がみたら眉をひそめるような生活をしている。

道のりはまだまだ遠いようだ。














Category: エッセンシャルヨガ

- 2019年1月22日

コメントを残す

Your email address will not be published / Required fields are marked *