モダンタイムズに気づく

 

少し前の話。
忙しい仕事を終えて、休日をむかえる。
しかし、忙しさの余韻は消えない。
なにをするにも効率的におこなわないといけない気がする。
それが普通になって、自分がつねに追われていることに
なかなか気づけない。
ゆっくりと遊んだり、すごしたりする子供のペースに合わせようと思ったとき、
自分がいかにセカセカしているか、やっと気づく始末。

一転して、現在。
生活のための仕事の中身が「時間に追われない仕事」になった。
そうなると、自分の中から「追われている感覚」が薄れた。
休日、本屋をゆっくりゆっくり歩き、本を選ぶ時も表紙の絵を丹念に
眺めている自分に気づく。
時間に追われる仕事の影響が消え去ってはじめて、その影響力に
気づいた。

でも、まだだ。

スマートフォンももたず頻繁にSNSもせず、
なるべくアナログ化を心がけている私でも、
すでに、古代の人たちのスローなリズムからすると
程遠いせかせかした人生を送っていることだろう。

あたりまえになっている時計に合わせた人生。
携帯できる時計もなく、ただ太陽に合わせて生きていた
人たちの時間の感覚はどんなものだったのだろうか。

現代には、古代から続くさまざまな瞑想や鍛錬のメソッドが
受け継がれているけれど、
そもそもスタートラインからして、現代人たる私達は
大きく後退している。

今日、本屋で気づいたことは、
読書というのは、ある程度体内の時間がゆるやかに流れていないと
開かれない世界だということだ。
これは、古典と呼ばれる小説を読んでみればわかる。
私の場合、これらはとてもスローで、無駄なことがたくさん書かれて
いるように感じて苦痛だ。
だけれども、その当時の時間の流れを生きる人々にとっては、
それはまったく苦にならない寄り道だったんだろう。

今、現在、生活のペースがすこし落ち着いたから、
本を開くと、また違った感触がある。
激務のときは、本を読んで情報を得るのが目的で、
こちらから積極的にガシガシと読んでいく感覚だったけれど、
いまは時間の流れがスローで、本が語りかけてくるのを
待つような感覚がある。

つまり、古代と同じスローな時間の流れでないと
開かれない世界があるということだ。
現代の私達が考える以上に、それらの修練は
手間暇がかかり、一朝一夕ではまったくなんにもならない
世界である可能性が高い。

ちなみに私はアーナパーナサティという呼吸瞑想を
しているけれど、いまだピーティという瞑想が深まってくると
現れる感覚に行き当たっていない。
(これが目的ではないんだけど、あくまで基準として)
たしかに、感覚が鎮まり、静寂のなかにある感覚まではあるんだけど、
そこから先に深まった試しがない。

やり方は間違っていない。
これは確信している。
問題なのは、実践時間なのだ。
現代日本で、家族をもち仕事をする俗世に生きる者としては、
かなり瞑想していると思うんだけど、
昔の人々から見ると、まだまだ浅い浅い実践しかできていない。
時間が足りない現代人の罠だ。

集中力を分散させるネットサーフィンに、
テレビ、ラジオ、膨大な雑誌や書物などからの情報過多。
たしかに世界は広くなったけれど、
その分、薄まった。

それを防ぐために、
最近の私は、いかに捨てるかが主眼になっている。

読書だとしたら、必要のない本は処分する。
弱肉強食のように、本当に自分にとって必要な本しか
手元に残さない。
本を手放すということは、そこに書かれた内容を
脳内で燃やしてしまうことを意味する。
膨大な数の蔵書を誇る人もいるけれど、
私は数冊でも、自分の血肉となり、その本が生活の
バックホーンになるような本を繰り返し読んでいる方がいい。

ヨガの練習も、本当に必要だと思う要素だけを
残して、他はすべて捨てる。
人生は有限で、時間は限られている。

私達の生活は不自然で、頭でっかちだ。
それを自覚したうえで、手を打たないと
頭でっかちの傍観者で人生がただ無闇に流れて、
気づくと歳だけとってしまうだろう。

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Category: ヨガ的かんがえ

- 2016年7月1日

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