コントロールとアクセプタンスの道のいきさき

99、999%のやり方は、物事を「コントロール」するやり方だ。
しかし、そのコントロールは最終的に破綻する。

たとえば、私はケトルベルで身体を鍛えている。
40歳だけれどオムロンのカラダスキャンを使うと、
「体年齢18歳」と表示される。
しかし、顔には皺がありシミがあり、
確実に老化している。
18歳のときの私ではない。
精度の悪い機械で、架空の若返りを脳内で堪能しても、
現実の私はどんどんと老化している。

どんなに筋トレしても「老化」に勝てない。
エステに通っても、最終的には老化して死ぬ。
コントロールの道は、最終的に敗れる。
金を貯めても、権力の座についても、
自然の力は、強制的に私達を老化させるし、消滅させる。
できることは先送りだけだけど、それにも限界がある。

どんなことをしても、どんなことをしなくても、
生老病死からは逃げられない。
なにをしても苦しみを根本に癒やすことはできない。
これが現実的な結論だ。
できることといえば、その事実から目をそらすための
気晴らしと先送りだけで、私達の生活は苦痛と気晴らしを行ったり来たりして終わる。
それを超えた人は、数少ない。

なぜなら、それは私達が99、999%やってしまう
コントロールの道の行き先だからだ。

ここから先は仏教の話になる。
ほとんどの人が抜け出せない世界の
わずかな脱出路を見出した男が2500年前にいた。
ゴウタマ君だ。
のちに仏になるこの人も、最初はコントロールの道に進んだ。

ゴウタマ君は最初、二人の集中瞑想の師匠に習った。
瞬く間に、師匠並の集中力を身に着けたゴウタマ君は、
完全に集中状態、サマディに入って心の作用を止めてしまう
ことができるようになった。
しかし、深いサマディの中では完全に沈静化している煩悩も、
サマディから出て、日常に戻ると相変わらずゴウタマ君を
悩ませるのだった。
煩悩を集中力で押さえ込んでも、最終的にはコントロールは
消えて、元の木阿弥になる。

次に、ゴウタマ君は苦行の道に進み、
体と心を崩壊寸前まで追い込むけれど、
相変わらず、煩悩は居座るままだ。

最終的に、ゴウタマ君が行き着いたのは
煩悩を抑制せず操られずに、ただひたすら観察するという
観察瞑想の道だった。

欲望があるときは欲望があると気づき。
怒りがあるときは怒りがあると気づき。
あらゆる喜怒哀楽に気づいていく、という瞑想に入って
ゴウタマ君は宇宙の真理を悟って、仏になった。

生老病死を克服する不死の門が開かれた!」と
仏になったゴウタマ君は宣言する。

これがヨーガや仙道だと、
「不死の門=不老不死の仙人」という形式になる。
寿命をコントロールする道の大家は、300年生きたとか
1000年生きたとか、いう伝説が残っているけれど、
「不死の門」を開いたはずのゴウタマ君は凡人と同じく
老化して、病気をして死んでしまった。

「なんだ、ゴウタマ君はもう死んだけど、仙人の私は
まだ生きている。彼のいう不死の門とはまったく
アンチエイジングではないな。
どこが不死の門??」

と仙人たちはゴウタマ君を馬鹿にするだろうけれど、
仙道やヨーガなどのコントロールの大家たちも、
300年生きて死ぬと、また生まれ変わって、新しい人生を
始めることになる。
コントロールできるのは、先延ばしだけで、
また新たな生老病死の苦しみが彼らを襲い、
また先延ばしのコントロールの努力の道に入るしかない。
仙人なんていわなくても、
将来、遺伝子工学や医学が発達しても、できることは先延ばしだけで、
最終的には老化に打倒されるだろう。

仙人たちが生まれ変わった頃。
普通に老いて病死したゴウタマ君は、
もはや生まれ変わって生老病死を経験することがない。

ゴウタマ君が悟った後の一生は、
まるで「明日から無期限の夏休みにはいる前の仕事の日」
のようで、今生に限って老化や病死は存在するけれど、
それが過ぎ去ってしまえば、もはやなんにも存在しない。
未来の生老病死の苦しみはすべて取り除かれてしまった
最後の生だった。

しかし、ヨーガや仙道の仙人たちは、
異常に長い生涯を終えると、またさらに生老病死を
バリエーションを変えて体験することになる。
終わらない無限の人生がまっている。

つまりコントロールの道は、永遠に終わりを見ない。
逆のまったくコントロールせずに、心の赴くままに
糸の切れた凧のように生きるのも、永遠に終わりを見ない道だ。

苦しみから逃げることなく、かといって抑圧することもなく、
攻撃も逃走もせずに、ただ観察するという道しかすべてを終わらせることができない。
これが唯一、苦しみを終わらせる道なのだろう。

これは生き物の生理にかなり反する。
生じたものは必ず滅するという真理がある。
放っておけば勝手に消滅するんだけど、
生じた時に私は「なにを!」と反応して、また新たなものを生じさせて、
それが延々と継続して無限のループに入る、ということを
知的に理解していても、私はやっぱり逃走と闘争のコントロールに道に
入ってしまうだろう。
観察して終わらせることができる事は稀だ。

老化を老化として感じ、喜びを喜びとして、
苦しみを苦しみとして、その感情になにかを足したり引いたりせずに
感じていく。
リアクションがさらなるアクションを生み、そこから無限の連鎖が始まるからだ。

仏教瞑想の最重要経典であるサティパッターナスッタには、
欲望や怒りがおこったときの対処法が書いてある。

心に怒りが生じた時 、「心に怒りが生じている」 と自覚するのです。 心に怒りが生じていない時 、「心に怒りが生じていない」 と自覚するのです。

心に妄想が生じた時 、「心に妄想が生じている」 と自覚するのです。心に妄想が生じていない時、「心に妄想が生じていない」 と自覚するのです。

心にゆるみが生じ、怠け心が芽生えた時、「心にゆるみが生じ、怠け心が芽生えている」 と自覚するのです。気が散っている時には、「気が散っている」 と自覚するのです。

あらゆることが心に起こっても、ただそれを自覚するだけ。
究極的には、すべての瞑想やヨーガはこの観察に集約される。

コントロールとアクセプタンス(受容)の違いについてはこちら。
マインドフルネス(仏教瞑想)を心理療法に応用して、
いるACTというものがとてもわかりやすく書いてある。
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Category: 瞑想

- 2017年4月13日

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