週刊リクニュース

6月18日
クリシュナムルティ



本を読むのは、旅に似ているのです。

何かテーマを決めて読書をする時。

何冊も何冊も本を読んでいくと、自分に一番最適な答えが

たくさんの本から自然と抽出されて、求めていたゴールに

辿り着くのです。そこにつくまで読むのを止めなければ、

かならず自分が好む結論がでます。
(正しい結論ではありませんが)

さて、私はいわゆる「人生、哲学、神秘主義」みたいな

ジャンルの本が好きで、なんらかの答えを探して

いろいろな本を読んだのですが、

最近、ゴールらしきものを発見したのです。

たくさんの本を読んで行き着いたのは、

クリシュナムルティという哲学者でした。

使っている言葉は優しいのに、その問いかけの

意味を把握するのがとても難しいという

印象の対話集や著作を読むと、いままでの

本の価値がすべて消えて、それがただの道案内でしか

なかったように感じました。

さてさて、こうやって書くと、

「どうやらリク兄は自分にピッタリの宗教を見つけたらしい」

と思われる方もいると思うのですが、

それは少し違うのです。

クリシュナムルティという人はあらゆる組織、宗教、信念を

否定しているのです。

「真理とは道なき領域であり、いかなる道をたどろうとも、いかなる宗教、いかなる宗派によろうとも、諸君はその領域へと近づくことはできない」

ということです。

それどころか、あらゆる考えを信じるな、私の言葉も

信じてはいけないし、また他人である私がまったく

内容も伴わずに引用することも意味がないという

考えを持たないという考えを持っているのです。

信念は人と人を分断する争いのもとだというのです。

国家、宗教、肌の色、あたなと私という区切り、

あらゆる考えや信念は私達を分断するし、

もしも我々が信じている信念に真理が宿っているならば、

何故、人間の世界はこんなにも戦争と狂気に満ちているのか?

とも言います。

ううん、そういえばそうかもしれない、、、

と私は思いました。

たとえば、ACとBC。

アフターキリストとビフォーキリストで

世紀をわけていますが、

戦争の歴史にはまったくその区切りの跡がみられない。

その他の偉大なる宗教家の誕生と

その信念の広がりが、この世界の戦争を減らしたのかというと

正直疑問です。

広島に原爆を落とした人々はキリスト教徒だろうし、

仏教徒だって人を殺す。

信念を持った私たちはまったく進歩していない。

たしかに技術的な進歩はしたけど、

子どもの頃は万引きと喧嘩をしていて

自転車にのって逃げていた悪童が、

成人して、窃盗と殺人をして自動車で逃亡する

とき、それを進歩を呼ぶのだろうかと思います。

人類の戦争や生活も技術的に進歩しましたが、

やっていることは誕生してからまったく

変わっていないのです。


言葉や信念というフォームを信じるなという

クリシュナムルティが
重視しているのは、観察。

たとえば一本の木を、あらゆる言葉や過去の記憶を

もたずに眺める時になにが起こるのか?

あなたがたは、いまだかって、木を直視したことがない。

みたいなことをおっしゃる。

そんなアホな、と思って公園にいって木を眺めてみたら、

なんと同じに見える銀杏の木が、それぞれまったく別の

枝ぶりで葉の茂りかたもぜんぜん違うことに初めて

気がついたのです。それまでの私の目には、

どれもこれも「銀杏」という言葉とイメージで

同一視していたのですが、

目のまえにある木が世界に一本しかないであろう、

オリジリティに初めて気がついたのです。

なんの意味のない発見でしたが、いかに自分が

既成概念でものを見ているのかに気づかされました。

自然の観察と同じように重視しているのが

自分自身の観察。

本当に観察をするならば、観察される対象となる自分と

観察者たる自分など存在しないという、私には理解できない

ことが書いてありました。

結局、クリシュナムルティさんの本には問いが書いてある

だけで「正解」や「答え」は書いてないのです。

「子供達との対話」という本で多用していた

言葉は、「考えてごらん」でした。

あらゆる既成概念を捨てて、考える、そして自分を観察する。

ううん、クリシュナムルティという人の言っていることは

理解できないけど、自分の動機や怒り、欲望をよく観察する

という手段は何百冊の本を読むのに勝る方法だとも思いました。

で、そう思って自分が何か変わったかというと、変わって

ないんですよね、これが。








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